ファームサルートからのお知らせ

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70数年前、17歳の頃に地区の青年団に入団した。市や地元で開催される「青年講座」を欠かさず受講した。その中で「バックボーン」と題しての講義があった。今日まで時々思い出す言葉である。今日ようやく私の「バックボーン」は「農業」だと思っている。

私は家庭の事情で少年時代を伯父に養育された。伯父は福井県酪農の先駆者で当時は水稲中心であったが、伯父は三つの目的を掲げて酪農を取り入れた。理由は3つ ①乳牛の糞尿で地力の増進②牛乳販売による収入増③農家の食生活の改善である。私は20歳の時、伯父の許しを受け農家として独立した。意識していたわけでは無かったが3つ農業経営を行っていた。①稲作は1年1回の収入②酪農は月々の収入③家畜人工受精業開業は日々の現金収入。この三つを組合わせて①意地と②我と③やせ我慢でやり通した。それは若さと体力と無知の3つの要素もあったと思っている。そして50歳ごろに3つの言葉を唱えられる様になった。①チャンスを逃すな②立地条件を生かす③最後まで諦めない。この3つだ。

そして今、私の農業は①稲作②酪農③農産物直売所の3つを組合わせて経営している。伯父はこんな農業を「立体農業」と称した。私は今89歳で人生の終着駅も見えてきた。最後に辿り着いた言葉は、「純粋に一生懸命」そして「気をつけろ」である。

私の名前は祖母や母から子供の頃に聞いたのは、父は私の祖父の萬次郎の一字を貰い萬と書いて「ヨロズ」と読む、弟の次男は次の一字を貰い晋次「シンジ」と読む、三男は郎を一字貰い悌次郎「テイジロウ」と読む。私達三人で祖父の萬次郎となる。

40年ほど前、東京で畜産関係の会議に出席し、夜は親睦会が開かれた。その時の事務局長は「晋」と書く名前であった。私は早速酒を注ぎに局長の席に行き「晋」と書いてどう読みますかと聞くと「ススム」と読むと言われた。その時「ハッ」と気づいた。
私の父は進「ススム」と言う。父は名津井家に婿養子として入籍した。長男の私に義父萬次郎の萬を名付け、次男に自分の進でなく「晋」をつけ「ススム」と読むことを知って晋次と名付けたと気づいた。三男の悌次郎の悌は字典を開くと「弟として兄に仕える」「兄弟の仲が良いこと」とあった。
父は私達兄弟3人に完璧な名をつけてもらい感謝し尊敬している。

父は20才の時、村で選ばれ近衛歩兵第三連隊に入隊し除隊後、26才で母と結婚し私達3人の兄弟を残し30才で支那事変で分隊長として参戦し戦死した。父が母に戦場から送ってきた手紙数通に「子供の教育」「子供を求む」と記している。私は農業、晋次は建設業、悌次郎は大学教授(理学博士)に進んだ。私は父の3倍も生きながら、父の足元にも及ばない。

55年ほど前、私は稲作2ha、乳牛14頭、家畜人工授精開業の3本柱で農業経営をしていた。そんな時、選択的農業経営が唱えられた。稲作専業、畜産専業など効率的投資でなければと云う事であった。しかし私はどうしても単一大型専業経営に踏み切れなかった。

私は少年の頃、両親を亡くし孤児となり、叔父の家で約6ヶ年ほど養育された。叔父は稲作、畜産(乳牛・豚・鶏)、園芸を組合せた農業経営を展開していた。すべてムダなく循環していた。また生活改善にも力を入れていた。それらを「立体農業」と称していた。特に「土づくり」に力を入れていた。

私は19歳の時、叔父の許しをうけ水田1.4ha、馬1頭で農業経営のスタートを切った。生活を支えてくれたのは、先祖よりの水田のおかげだった。私の農業は水田が基本である。現在水田9ha、乳牛28頭、農産物直売所の3部門を組み合わせて循環型を理想としている。ところが最近、思わぬ事に直面している。牛糞の処理だが、今まで自家の田畑と近隣園芸農家への配達で全部処理出来たが、最近余り始めた。月にダンプ1台分ほど余り始めた。改めて何事も「終末処理」の大切さを痛感している。色々な解決方法があるので、何としてでも解決したいと考えている。何事も「終末処理」が大切だと云う事に気づいた。

先日、我が家の乳牛が繋いでいた綱が切れて牛舎内を動き廻っていた。咄嗟に近くの柱に吊るしてある細いが丈夫なロープでもって応急処置として乳牛を繋ぎ止めた。以前に乳牛が牛舎外に出て、畑を走り廻った苦い経験がある。また何気なく牛舎に入ったら、乳牛が分娩を始めている。あともう少し陣痛が足りない。横の柱に吊してあるロープで子牛の前脚にからげ助産し子牛が助かった。それは牛舎の十数ヶ所に吊してあるロープのおかげだった。

私は牛舎に2頭に1ヶ所、細いが丈夫な2メートルほどのロープを吊してある。主に乳牛の人工授精のときに尻尾を保定するのに使っている。それは50年程前、酪農先進地の先生が牛舎の整理や管理の指導に来場された時、ロープ等は1ヶ所ではなく何ヶ所かに。特に目に止まりやすい所に吊しておくと良いと指導を受けた。それは乱雑ではなく、目的を持った危機管理だと教えられた。

昭和30年、20才の頃、全国愛農会主催の農業講習会で「堆肥熱利用による育雛法」を学んだ。早速、隣家のN君と養鶏を始める事を決意した。講習会の時、鯖江で実際に取り組んでいるMさんと知り合った。N君と2人で自転車で鯖江のMさんを連絡もしないで訪ねた。Mさんは当時50才ぐらいと思う。心良く応対して頂き、養鶏場の育雛の現場で指導を受けた。2人共同で百羽育雛を始め、100%の育雛に成功した。後に私は県の農業研究発表大会で3等に入賞した。

後日、鯖江のMさんの経歴を知った。Mさんは朝鮮国で農業指導者として活躍していたが、昭和20年の日本の敗戦で日本に帰国し、鯖江に入植した。帰国する事を知った朝鮮の農村の地区では、帰国せずに農業指導を続けてほしいと懇願されたが日本への帰国を決意した、と知った。私とN君はMさんの人柄を知り共に反省した。青二才の2人に同じ農家の目線で指導して頂き感謝している。優れた農業者の基本を学んだ。

私は家庭の事情で13才から19才まで約7年間、伯父の家で養育を受け、稲作、酪農、園芸を学んだ。伯父は独学で教員となり、その指導力を認められ県より指名されて味真野村青年学校長を務め食糧増産と青年教育に従事した。また地区の村長、農協長、後に県会議員となる。晩年百羽養鶏を計画し電熱による育雛を始めた。途中、私に育雛の注意点や餌や給水、温度調整を私に聞いてきた。私は伯父から農業のイロハから実践で学んだ。改めて私は伯父の優れた指導者、教育者、人格者の姿勢を学んだ。

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