ファームサルートからのお知らせ

ファームサルートからのお知らせ

過年、地元の小学校より児童の校外学習で私の集落の神社を見学したいとの連絡があった。私は快諾した。私は集落の神社の責任役員をしている。10名ほどの小学生が先生と来られた。早速、集落の「愛宕神社」の説明と、ご神体を拝観してもらった。ご神体は佛像で大人が胡座をかいた型の大きさである。
神佛混合時代のご神体である。小学生の中に1人だけ社殿に入らずに、外でさみしそうに佇んでいる。聞くと両親から社殿に入ったらダメと言われているとの事で、引率の先生も両親から言われているとの事である。信教からと思うが残念であった。

私は先祖代々、佛教徒であり、神社の責任役員も務め集落の神社の世話をしている。家の佛壇では数珠を手にお参いりし、神社では二拝二拍手一拝しお参いりしている。また、教会での結婚式にも参列している。私は神佛に対する信心が浅いのかも知れない。しかし他宗、他人への理解や寛容、思いやりが大切と思う。それは平和の原点でもある。宗教戦争ほど惨めなものはない。

50年ほど前に北陸地区の「愛農研修会」が金沢市で開催され出席した。研修の前に「佛教」についての講話があった。講師は戦時中、陸軍大学校を卒業し軍の命令で「世界の宗教」をすべて研究せよと言われ終戦まで約4年間軍務に就かず世界のあらゆる宗教について研究し、究極の結論は「佛教」が最高であったと語られた。


先日、農業新聞に「牛、高い受胎率」と題して研究グループが、真っすぐに泳ぐ精子より蛇行して泳ぐ精子の方が牛の受胎率が高いことを見つけ、泳ぎ方で精子を選別して集める器具も開発されたとの記事があった。私は現在、酪農経営をしている。酪農経営の成否は乳牛1頭1年1産が目標である。その基本は授精、受胎にある。家畜人工授精師の免許を取得して60年になる。その間の授精頭数は延べ94頭ほどになる。人工授精技術の進歩はめざましく、現在は雌雄判別された精液、雌の受精卵移植など酪農経営への貢献は計りしれない。

我家では数年前に雌の授精卵移植で県内で第1号の乳用牛の雌が誕生している。過年、福島県で開催された家畜人工授精講習会で講師の先生はこのあと産婦人科の先生方へ受精卵移植についての講義に出かけると話していた。人間の授精卵移植を家畜の「牛」で確実に成功してからだと思う。故に生命工学の最先端は畜産界だと思っている。

精子を顕微鏡で見ると何千万という精子が渦をまいて泳いでいる。それを目視でプラス1、プラス2などと活力を表し、活力の高い精子ほど良い精子である。精子は雌の胎内に入るとより一層活力を増すそうだ。生ある私たちは何億の精子の中から選ばれ母胎に着床し、そして生れ出た者である。故に改めて命の大切さを痛感し、感謝の気持ちをいただき、自分の命、他人に対しても命の大切さを尊重しなければならないと思う。


昭和33年、23才のときに家畜人工授精師の免許を取得し開業した。福井市を中心に半径50km内の農家の乳牛・和牛、時には豚の人工授精業務で砂利道の県道などを単車で駆け巡った。1日平均2頭ほどの授精業務があり、遠くは美山・三国・鯖江地区など山間の農家にも出向いた。由に多くの農家の先輩と出会い、色々な教えを受け、学んだ事に心から感謝している。先日、60年ほど前に和牛の人工授精で世話になった農家の集落に行く機会があった。当時の牛舎は車庫になっていたが、外観は60年前当時のままであった。その時に懐かしさと大きな感動を覚えた。また周辺の山野の景観に心うばわれ感動した。

数年前に小学生の頃の同級会が開かれ、何十年ぶりに滋賀県よりN君が出席された。ズック姿の軽装である。帰りに子供の頃行った事のある足羽山、朝倉氏遺跡を訪ねたいと言う。翌日、N君を車で朝倉氏遺跡まで送った。後日、礼状がきた。足羽山の継体天皇像が70年前当時と変わらず立っていたので感動したと記してあった。そんな事を若い人達に話したら「懐古趣味だ」と一蹴されてしまった。しかし、数年前に地元小学校の卒業式に出席する機会があった。校長先生が卒業生に「贈ることば」の最後の「感性をみがき、感動する心をやしなって下さい」との言葉が今も私の心に宿っている。また、過日の新聞のコラム欄に思い出の場所を訪ねたり、思い出にふける事は「脳の活性化」になると云う文を読んだ。

私にはまだまだ訪ねたい所が一杯ある。楽しみだ。


惜 別

福井県の米の新品種「いちほまれ」を試食した人は「おいしい」と、評判は非常に良いすべり出しである。私も早く栽培したいと思っている。今日まで日本一の米「コシヒカリ」は本当に頑張ったなァと思い大拍手を贈りたい。

私は昭和30年、20才の時に福井県農業試験場内にあった「農村中堅青年養成所」(短期)に入所した。その時に「コシヒカリ」育ての親とも云える「石黒慶一郎」先生が在場しており、もの静かな細身の先生の印象がある。コシヒカリの誕生が昭和31年だから、世に出る直前であった。最後の仕上げの最中だった。私は坂井市の方に出向く時があると、石黒慶一郎先生の手に稲穂を持った銅像(舟寄)を訪ね住時を偲んでいる。

当時、農業試験場は現松本小学校の校門の前が場の入口であった。コシヒカリの栽培を初めた頃、倒伏させてしまい、刈取りに苦労した思いがある。その後、コシヒカリの栽培の技術が「V字型稲作」として定着し約60年、日本一の米として栽培されてきた。コシヒカリには、もう一つの素晴らしさがある。私はコシヒカリ誕生と同時に稲作と酪農に取り組んでいる。同じ畜産農家で肉用牛飼養をしているM君は、稲ワラは肉用牛生産には絶対に欠かせない飼料だと言う。その稲ワラの中でもコシヒカリの稲ワラを好んで喰べると言う。コシヒカリはしなやかさ、軟らかさ、そして旨味もあるのではと思う。コシヒカリは我々の最高の主食であり、同時に稲ワラは家畜の最高の餌である。コシヒカリは「実」も「茎」も最高の稲であったと云う事実を書き残しておきたいとの思いで記した。


先日、農業新聞の記事で49歳以下の新規就農者が3年連続で2万人超と出ていた。また、とき同じく週刊誌には写真紹介で「ニッポンの『新』農業男子」として写真記事で、野菜・果樹・畜産に取り組む14名の30歳代の若手農家の紹介が出ていた。農業一筋で生活して来た私は密かに静かに喜びを噛み締めている。

改めて私の住む地区で農業を専業として生きる農家を数えてみた。地区の農家集落12区内で、大型園芸ハウス農家3戸(内1戸は水耕栽培)、稲作では80ha以上の農家3戸、稲作と園芸農家1戸、集落営農1組織、また中規模で稲作と園芸に取り組む3戸、そして私の稲作と酪農1戸、計個人11戸(内法人組織3戸)集落組織1である。改めて数えてみて驚くと共に、嬉しさがこみ上げてくる。私が最年長者である。20数年前に私にY君が「名津井先輩が農業一筋で生活している姿を見て、自分も農業に取り組む勇気と活力をもらっている」と言って、いつの間にか私を乗り越えて大型農業経営をしている。やっぱり私は嬉しい。

私の集落で私と同じ姓の35歳の若手農家が、今春大型ハウス8棟を建て園芸栽培をスタートした。土地は私が耕作していた40aの集落の1等地の水田を提供した。成功を祈ると共に、やっぱり私は嬉しい。

「力耕不吾欺」(力耕吾を欺かず ※1) 畑仕事を力いっぱいやって欺かれる事は無いと云う中国の田園詩人、陶淵明(トウエンメイ)の一節である。生涯を農業に生きようとして今日まで歩んできた私は、やっぱり嬉しい。

※1 りきこうわれをあざむかず

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