私は牛舎に2頭に1ヶ所、細いが丈夫な2メートルほどのロープを吊してある。主に乳牛の人工授精のときに尻尾を保定するのに使っている。それは50年程前、酪農先進地の先生が牛舎の整理や管理の指導に来場された時、ロープ等は1ヶ所ではなく何ヶ所かに。特に目に止まりやすい所に吊しておくと良いと指導を受けた。それは乱雑ではなく、目的を持った危機管理だと教えられた。
後日、鯖江のMさんの経歴を知った。Mさんは朝鮮国で農業指導者として活躍していたが、昭和20年の日本の敗戦で日本に帰国し、鯖江に入植した。帰国する事を知った朝鮮の農村の地区では、帰国せずに農業指導を続けてほしいと懇願されたが日本への帰国を決意した、と知った。私とN君はMさんの人柄を知り共に反省した。青二才の2人に同じ農家の目線で指導して頂き感謝している。優れた農業者の基本を学んだ。
私は家庭の事情で13才から19才まで約7年間、伯父の家で養育を受け、稲作、酪農、園芸を学んだ。伯父は独学で教員となり、その指導力を認められ県より指名されて味真野村青年学校長を務め食糧増産と青年教育に従事した。また地区の村長、農協長、後に県会議員となる。晩年百羽養鶏を計画し電熱による育雛を始めた。途中、私に育雛の注意点や餌や給水、温度調整を私に聞いてきた。私は伯父から農業のイロハから実践で学んだ。改めて私は伯父の優れた指導者、教育者、人格者の姿勢を学んだ。
私は3才で父、12才で祖母と母を亡くした。その時、私の母の姉の夫「山形寿」が私達兄弟3人を引き取ってくれた。私は13才から19才まで約7年間、伯父に養育してもらった。伯父は独学で教員免許を取得、地元小学校の教員となり、その後村長・農協長・県会議員を務めた。また農業指導力を認められ武生の味真野青年学校長になり、青年教育と農業指導に励んだ。また福井県酪農の先駆者で水田酪農を提唱し、福井酪農農業共同組合の初代組合長として活躍した。
私は今7代目の組合長だ。伯父は稲作に酪農を組んだ経営を指導した。私が伯父の家で養育してもらっていた時だ。私は稲作、酪農、野菜作りに伯父の手足となって働いた。現在私は伯父の意志を実行して稲作+酪農+直売所を経営している。伯父はそれを「立体農業」と称した。伯父に養育された事を幸せに思っている。もし伯父に養育されなかったら、気ままなクズの様な人間になっていたかも……と思う事がある。まだ県内に伯父の名を刻んだ石碑などあるはずだ。伯父に出合いたい。
私の食生活の基は米、野菜を中心とした日本食、そして西洋食の優れた牛乳、卵、肉を加える事。そしてもう一つ乳酸菌食を加える事と思う。我家では梅干、漬物、味噌は自家製である。ある先生は、福井県は気候的に発酵食品作りに適していると言われた。私は毎年2月の農閑期に1泊2日の人間ドックに入る。数年間のデータを示されながら注意点を指示してくれる。看護師さんから「何時も元気ですねぇ」と言われ、もう1人の看護師さんは「うらやましいわ」と言ってくれる。栄養指導の看護師さんも細かな指導をしながら「このまま続けて下さい」と言われた。
私は現在86歳、あと4ヶ月で87歳になる。年中無休で朝5時起床、6時から8時まで乳牛の搾乳作業だ。3月から11月までは9haの水稲作業が待っている。いつまで続けられるか楽しみにしている。「楽しみは、健康で仕事が出来ること」
私も農業歴60有余年になるが、今でも初めて経験する事がある。同業の者からアドバイスを受けたり、ヒントを与えられる事がある。私の年齢の3分の1に満たない若い人の話でも私のまったく経験した事の無い事を聞く事もあり、良い勉強になる。子供の頃、母は私に「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」と言い聞かせてくれた事を思い出す。プライドは持ちながらも、プライドを捨てることも大切だと思っている。