ファームサルートからのお知らせ

ファームサルートからのお知らせ

先日、農業高生2人が農業実習で来宅した。5日間、水稲、牧場、直売所での作業に従事してもらった。その中でトラクターによる3haの草地の刈取り作業を実習した。トラクターに乗るのは初めてと云う。トラクターに私も同乗し操作と刈取り要領を伝え最初に私が刈取り作業を示した。直線と意識的に曲線の刈取りをし、次に2人に実習してもらった。直線に刈取りした所は次も直線に刈取りされ曲線の所は曲がって刈取りされる。その中で曲がった刈取線を真直ぐに刈取り修正する要領を覚えてもらった。それは曲がった刈取り線に添って刈り取れば曲がってしまうが、真直ぐに修正するには真直ぐにすべき目標を遠くに定めトラクターの中心を目線で結びつけて刈取りを進める事、注意点として曲がった刈取り線は無視する事を指示した。すると曲がらずに直線に刈取り出来た。

それを例にたとえ、人生も同じで遠くに大きな目標を定め歩むことだ。また時には曲がることがあっても目標とする大道に修正すれば良いことだと話した。2人は何かに気づいた様に思えた。

私は中学1年の頃、母が何時も「早く大きくなって農作業を手伝ってくれ」と言っていたので、全く迷いなく自分の職業は農業と決めていた。そして今日まで歩んできた。今もまったく迷いも悔いも無い。農業と云う大道の中で時には脱線気味の事もあったが、修正しながら歩んできた。

60才ぐらいの頃は70才まで農業現役でと目標を定めていた。70才のときは80才までと定めていた。今83才となり、90才を目標にしている。


先日、私の牧場に来た青年がメモ書きの時、左手にペンを持って書いていた。少し書き苦しそうだ。本人は苦にしていないが。私の弟は左利きだが、子供の頃に母は「筆と箸」は右手でと厳しく強制的に指導した。故に弟は「筆と箸」は右利きだが、それ以外は全て左利きである。稲刈作業では鎌の刃を反対にソリ曲げて使っていた。

社会生活は全て右社会に出来ている。何事も練習次第で右でも左でも十分に克服できる。私は30才ごろに台秤を運ぶ時に石段ですべって右手の小指を骨折し「く」の時に曲がってしまった。そのころ1日平均2頭の乳牛や和牛の人工授精業務に携わり、各畜産農家を廻っていた。授精技術として直腸膣法と云う方法で行っていた。私は右利きなので牛の直腸に右手を入れて子宮頸管を握り、膣から入れた精液注入管を誘導して子宮内に注入する方法で行っていた。右手小指の骨折のため、左手で実施した。大変やりにくかったが、回数が増すに従って難なく行う事が出来る様になり、今も左手の直腸膣法で行っている。右手ではやりにくくなってしまった。

母の弟への躾や、私自身の経験から「躾」や「教育」はある程度は強制的でなければならないと思っている。


先日、北海道の町村農場の血統を引く乳牛を導入することが出来た。昭和45年、第5回全日本ホルスタイン共進会が愛知県豊橋市で開催され、私は福井県代表として初めて愛牛を出品した。開会式を直前に控えた時、北海道の町村末吉氏が北海道の出品者40余名に「開会式に遅れない様に駆け足で行こう」と呼びかけて走って行った。全国の酪農家の憧れの日本を代表する町村農場主である。その時が、町村末吉氏との初めての出会いであった。

町村農場の先代は福井県武生地区出身で、今も先祖の墓があると聞く。末吉氏は町村家に婿養子に迎えられ、先祖は大野地区出身との事である。それから十数年後、福井県の乳牛の審査に日本ホルスタイン協会の山本善彦審査長が来県された。その時、私は懇親の席を設け酒くみ交わしながら乳牛改良の話に花が咲いた。第5回全ホ共の時、審査の補助員として参加していたそうである。そのとき町村農場の末吉氏の話が出た。山本氏は「町村農場は日本一の牧場で、日本酪農の指導者としてもトップレベルの農場であり農場主の末吉氏の人格に尊敬している」と言われた。ある時、北海道で1頭あたり産乳量の多い酪農家での研修会に町村末吉氏も出席され熱心にメモをとる謙虚な人間性と、その姿勢に非常に感動したと言われた。後日、私は町村末吉氏に電話し、福井県家畜改良協会の総会に講師として「町村農場のあゆみ」を講演してもらった。

町村末吉氏の学ぶ姿勢と、剣豪の宮本武蔵の格言「我以外すべて師」の言葉を噛み締めている。


去る1月7日、福井県農家の中で私の最も尊敬する農友の中川清氏が逝去された。遺影を眺めながら色々な遺訓を思い浮かべた。その中の一つ、ある時農友のA君が農家の後継ぎの息子に不安を持ちながら中川氏に相談し、息子の良い点も中川氏に語っていた。中川氏は「私が息子さんに話します。君は息子さんに何も言わないほうが良い」と言われた。その後A君が中川氏に嬉しそうに心からのお礼を言っていた。中川氏はA君の息子さんに、さりげなく「君のおやじは○○○と喜んでいたよ」と良い点だけを言ったそうである。

中川氏は、褒め言葉は他人から言ってもらうのが一番だと言っていた。私も思い当たるものがある。私は家庭の事情で14歳から19歳まで叔父の家で生活した。叔父は独学で教員免許を取得し地元小学校の教員、村長、農協長、県議を務めた人である。当時、叔父の家では田畑のほか乳牛、馬、豚、ニワトリが飼育されていた。私は叔父の手足となって働き、農作業を学んだ。特に叔父は稲作に乳牛を加えた福井県で最初の水田酪農の先駆者であった。米の増産と共に①乳牛の堆肥を利用した地力の増進②牛乳販売による農家収入の確保③牛乳飲用による農家の食生活の改善を目指していた。その他蔬菜も取り入れた。そんな農業を叔父は「立体農業」と唱えていた。

私は20歳の時、農家として独立した。その頃、毎年7月ごろ水稲作見会が開かれた。叔父は農業指導者として各地をまわっていた。ある時、全くの他人から叔父が「ヨロ(※1)の稲作りが一番良い」と言っていたと聞かされ、嬉しくなり叔父の期待に答えたいと米作りに熱中した。また私は水稲に酪農を加え、豚、ニワトリを飼い叔父の理想とする「立体農業」に取り組んでいた、そんな時、ある婦人から「叔父さんが、ヨロがウラ(※2)の息子やったらなぁ」と言っていたと聞かされ本当に嬉しかったし叔父の期待に応えたいと思った。

今、農家として独立して60余年になる。特に酪農では現役として福井県で経験と年齢は最高位である。また先日、石川県の友人から現役の酪農家では北陸三県で一位だと聞かされた。叔父の唱えた理想の「立体農業」には未だ未だだ。未完の完となるかも知れないが、人生の終着駅まで坦坦と歩み、少しでも亡き叔父の期待に応えたい。

※1 私の名前は萬と書いてヨロズと読み、叔父はヨロと呼んでいた
※2 ウラは福井弁で「私」のこと

今夏、稲刈りのコンバインの点検整備をしていたら、昨秋に清掃したはずなのに泥土がシッカリとついているではないか。清掃するとき「見る角度」が違っていたのだ。また経営計理も会計事務所に提出すると間違っている時もある。原稿を書き終えて、翌日に読んで見るとチョットおかしいなあと思い書き直す事もある。何事も角度を変えて見るべきと思う。また他人の意見や主張なども参考にすべきと思う。ただし他人の意見などに惑わされて自分の信念が左右に揺れてはダメと強く思う。

私は、市議県議を50数年間務めた尊敬する大先輩(故人)の生き方を指針としている。私が20才ぐらいの頃、青年団活動で挨拶をした時、あとで大先輩は私に「上手に喋ろうとしてはダメだ。自分の日頃の思いや考えを話せば良い。その為には勉強が大事だ」と注意を受けた。また10年ほど前に「地区の事で相談したい事があるから自宅に来い」と連絡があり、大先輩の求める地区の事業に私は先頭に立ち協力する事を快諾した。帰りに「ちょっと待て」と言って机に向かい筆を取り、手紙に「断乎動 断断乎不動」と書いて私にくれた。私はそれを表装して座右の銘としている。それは何事も決断したら直ちに行動し、そして他人の言動に断じて断じて惑わされるなとの教えである。

自分の信念を原点として、他人の意見にも耳を傾けながら自分の信念を磨き行動したいと思っている。

※大先輩とは東郷重三先生の事である。日野川に架かる明治橋の橋銘板の字句は大先輩の字句で、私が東郷先生に書いてもらって取り付けたものである。また、地区の事業とは、日野川に植樹された桜500本である。

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