ファームサルートからのお知らせ

ファームサルートからのお知らせ

今夏、稲刈りのコンバインの点検整備をしていたら、昨秋に清掃したはずなのに泥土がシッカリとついているではないか。清掃するとき「見る角度」が違っていたのだ。また経営計理も会計事務所に提出すると間違っている時もある。原稿を書き終えて、翌日に読んで見るとチョットおかしいなあと思い書き直す事もある。何事も角度を変えて見るべきと思う。また他人の意見や主張なども参考にすべきと思う。ただし他人の意見などに惑わされて自分の信念が左右に揺れてはダメと強く思う。

私は、市議県議を50数年間務めた尊敬する大先輩(故人)の生き方を指針としている。私が20才ぐらいの頃、青年団活動で挨拶をした時、あとで大先輩は私に「上手に喋ろうとしてはダメだ。自分の日頃の思いや考えを話せば良い。その為には勉強が大事だ」と注意を受けた。また10年ほど前に「地区の事で相談したい事があるから自宅に来い」と連絡があり、大先輩の求める地区の事業に私は先頭に立ち協力する事を快諾した。帰りに「ちょっと待て」と言って机に向かい筆を取り、手紙に「断乎動 断断乎不動」と書いて私にくれた。私はそれを表装して座右の銘としている。それは何事も決断したら直ちに行動し、そして他人の言動に断じて断じて惑わされるなとの教えである。

自分の信念を原点として、他人の意見にも耳を傾けながら自分の信念を磨き行動したいと思っている。

※大先輩とは東郷重三先生の事である。日野川に架かる明治橋の橋銘板の字句は大先輩の字句で、私が東郷先生に書いてもらって取り付けたものである。また、地区の事業とは、日野川に植樹された桜500本である。

五育

20数年前、農林統計の調査農家をしていた頃、北陸農政局の職員の方の講話があり、その中で「食育、智育、徳育、体育、才育」を「五育」と云い、そしてこの言葉は福井県出身の石塚左玄の言葉であると云われ、この時はじめて「五育」と云う言葉と、石塚左玄を知った。その後、食育と云う言葉を良く見聞する事となった。

私は平成21年に県の「食育コーディネーター」第一期修了生であり、昨年は県の「食育リーダー」第一期修了生となった。また10年程前に中央酪農会議の「酪農教育ファーム」認証牧場として、小学校の児童を中心に乳牛の乳しぼり、エサやり体験で年間500名前後を受け入れている。その中で食育の一環として、牛乳の飲用をすすめ、私自身の体験を話ている。

今春、総合病院で骨密度の検査を受けた。私の骨密度は2、30歳台の人を100とすると123であり、同年代(私は82歳)だと148の数値であった。毎日欠かす事のない牛乳の「おかげ」だと思っている。搾乳体験で来場する児童にも牛乳の飲用を勧めている。その時に必ず「汗」を出す事、流す事を強調している。私は酪農と稲作の仕事で汗を流している。児童の皆さんには運動により汗を流してくださいと言っている。図らずとも、最近新聞紙上で「食育と命」の言葉の中に仕事という言葉を入れると出ていた。「食育と命と仕事」となるそうだ。私の想いと一致した。しかし、これからは石塚左玄の唱えた「食育、智育、徳育、体育、才育」の五育でバランスの取れた人材を育成する事だと思う。


昭和33年、私は家畜人工授精師(牛)の免許を取得し、福井市を中心に各農家の乳牛と和牛の人工授精に単車で走り廻った。ある日、国の乳牛関係機関から(県の畜産担当職員を通じ)M農家が生産した乳牛の母牛の生年月日・産次・父牛の名号など追跡調査を依頼された。担当職員は日頃のMさんの飼養管理を考えて「M農家さんはダメだと思うが」と言われた。私も同様、調査に行っても分からないだろうと思った。

そんな気持でM農家を訪ねた。するとMさんに「牛舎に来てほしい」と言われた。Mさんは牛舎の隅の壁際の汚れた新聞紙をめくって調べ始めた。年度ごとの飼養牛の一覧表が約10年分ほど重ねて貼り付けてあり、5年分程めくると記録があった。調査は完璧であった。ビックリした。何回もMさんの牛舎に入りながら、まったく気付かなかった。新聞紙は汚れを防ぐためであった。私も現在、拾数年分の飼養牛の一覧表を牛舎に保存してある。Mさんから学んだ事である。何回か乳牛の追跡調査があったが無事であった。

それ以後、各農家の人工授精に出向きながら意識的に経営管理や人生訓を勉強させて頂いた。私に無い経験や知識を得させてもらった。人はそれぞれに必ず「勝れた何かを持っている」。それを学ぶ姿勢が大切に思う。私の農家経営にも色々な人から学んだものを生かしているつもりだ。


5年前、77歳の春、地区の体育祭に参加した。年齢別男女混合リレーがあり、町内の体育委員から55才以上のリレーに出てくれと求められ出場した。第一走でのスタートである。6チームの走者が並んだ。「負けるだろうが、負ける気がしない」4番で2走にバトンをタッチ出来た。私と一緒に走った15歳ほど後輩から「名津井さんの馬力と健康は私の目標です」と言われた。

今、私にも目標がある。30年前に51歳の時、米国カリフォルニアの農業研修に県より助成金を頂き、9日間派遣させてもらった。日系と白人の9農場をバスで移動しながら研修した。その内の知野農場はメキシコ国境に近いデルマーという所で超高級住宅地にある。野菜生産農場で農場主は和歌山県出身の知野潤三氏で、当時92歳であるが凛として農場を電気自動車で案内してくれた。雑談の中で子供は9人(男7人女2人)すべて一流大学出身で、全員医師と弁護士であるそうだ。三男はアメリカ医学会の心臓医の権威だそうだ。子供の教育では全員農場で働かせて学校に通わせたと言う。また当時、知野農場の土地は百億円を下らないと言われるが、住居は木造平屋のトタン張りの超質素な住宅であった。92歳で農場主として第一線で働き、全米で知野さんはジーパン姿に縄バンド姿が有名で毎年テレビで放映され、ニューヨークタイムスでも話題になっていると言う。

知野さんは25歳(大正初期)に渡米し想像を絶する困難を「日本魂」を秘めて乗り越えたと言う。そして初心を忘れるなと言う。知野さんの92歳まで、私はまだ11年ある。それ以上に農業に従事したいと秘かな目標を目指している。


(一)
昭和16年、村の国民学校(現小学校)に入学した。隣席のS君は何故か私の鉛筆や教科書を隠してしまうので憂鬱な毎日であった。最初の春の遠足に行かなかった。母が心配そうであったが行かなかった。何故か行きたく無かった。その後、体育の時間に相撲競技がありS君と対戦した。勝ってしまった。また50m走でも学年で1番だった。それ以来S君のイタズラは無くなってしまった。その頃、夏になると各村々の青年会主催の子供相撲大会に出場し、3人抜き、5人抜き、最高7人抜きで農具を商品としてもらった覚えがある。

(二)
中学1年の時、一級上にHと云う転校生が居た。2,3人の仲間をつれていて、気に喰わないものが居ると呼びつけて殴ると云う事を伝え聞いていた。そんな時、私が呼び出しを受けた。サーッと血の気が失せた。なぜ殴られるのだろうと思った。Hの仲間に連れられて行く時、殴られたらその手に噛み付いて離さないとの覚悟を決めてHの前に立った。血の気の失せた顔で覚悟を決めた気迫だったと思う。ところがHは「行け」と言って立ち去った。今も何故か分からない。

(三)
余談だが18才ぐらいの頃「一心館」と云う柔道場に農作業の後、夜2時間程通い6ヶ月で初段を習得し2段の先輩とも対等に戦えた。20才の時、東京の明治神宮外苑で開催された、全国青年相撲選手権大会に福井県代表で軽量級に出場した。そんな経歴が効を生じ、自称ヤクザを称するNは人々の前では大口を開くが、私と1対1になると従順そのものであった。


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